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執筆者の写真旅LABO本郷 柳澤美樹子

隠岐独立! の歴史の一コマ

更新日:2019年12月14日

隠岐で拾ったお話 その5


80日間の隠岐自治政府樹立

 江戸時代もあと半年で終了という慶応4年(1868=明治元年)3月19日、かねてから尊皇攘夷の気持ちが強かった隠岐島民3000人余りが集結し、松江藩から派遣されていた郡代らを島から追放し、80日間、島民による自治を行いました。

(それ以前に、隠岐にやってきた黒船に立ち入った郡代が、なんと刀を置き忘れて しまうような情けない大失態を演じたこと。高い年貢に島民が疲弊している状況下で、隠岐に派遣された松江藩士は放蕩していたこと。島民を農兵として黒船に備えさせていたのを、一転、武器を取り上げたこと。というような前段階があった詳細は省略します)

 幕末から明治維新に起こった、日本海の離島の画期的な大事件でした。


お餞別付きで追い出した役人

 戦いを好まなかった隠岐の人たちは、郡代らを傷つけず、米2俵、酒2斗と共に船に乗せて送り出しました。正に、無血革命だったのです。

 郡代を追い出した隠岐では、陣屋に自治組織を置きました。そこでは、総会所(=議会)、会議所(=行政府)、文事頭取(=文部・内閣官房)、目付(=裁判所)などと役割を分担して島を統治したのです。また、若い人たちは立教館という学校に通って文武を身につけました。

 しかし、幕府もいつまでもその状態を放置してはいません。また、隠岐自治組織側も朝廷からのお墨付きを得ようとしましたが、うまくいきませんでした。

 5月には松江藩に陣屋を奪い返されてしまいましたが、薩摩・長州などのとりなしで自治が継続。しかし、11月には松江藩ではなく鳥取藩が隠岐を管理することに決着し、隠岐の自治は終わりました。

 その経緯は、漫画冊子「優しい革命 隠岐騒動」がPDFで公開されていますので、興味のある方はぜひご覧ください。


腹立ち紛れの刀疵

 歴史上の出来事の話が長くなってしまいましたが、この事実の痕跡が見られるのが、玉若酢命(たまわかすみこと)神社です。正確に言えば、神社の隣にある宮司さんの住まい「億岐(おき)家住宅」です。億岐家はオオクニヌシノミコトの後裔と伝えられ、玉若酢命神社の宮司と共に国司も務め、隠岐独立の拠点となっていたのです。

 その土間に入ると、柱に深い刀疵がいくつもついています。その右側には、弾痕。

 これは、自治組織樹立の後に松江藩が取り返しに来た際につけられたものです。しかしここで斬り合い、撃ち合いがあったわけではありません。松江藩が来たときにはもう、戦いを避けた島民たちは山に逃れてしまっていたのです。それに苛立った兵が、腹いせにつけたのがこの疵痕なのだそうです。

 戦いは好まず、主張ははっきりと通す。この革命は、隠岐の誇りです。

 島の造り酒屋・隠岐酒造の蔵元の毛利さんに後にお話を聞いたことによると、「おじいちゃんのおじいちゃんが隠岐騒動の首謀者」だったのだとか。彼らの血と気概は、島に脈々と伝えられているのです。

(上)玉若酢命神社を司る億岐氏の社屋。身分によって入口が3つある、隠岐を代表する大きな住宅だ。隠岐騒動の際の弾痕(中央)や刀疵(右)が残っているのが生々しい

由緒ある神社にも見どころ多数
玉若酢命神社の社殿。本殿は神社の隠岐造りという独特の様式だ(島前)
八百杉には日本海側の杉の特徴が見られる

 玉若酢命神社の社殿の方も、本殿がこの島に特徴的な典型的な隠岐造りであったり、樹齢約2000年とされる八百杉を間近に見上げられたり、6月5日に行われる「御霊会風流(ごれえふりゅう)」の馬入れ神事が勇壮で迫力があったりと、注目ポイント満載です。

 ここは創建不詳なほどの昔に、隠岐の「総社(そうじゃ)」として建てられた神社です。総社というのは隠岐のすべての神社の御祭神をみな祀っている神社のこと。本来赴任してきた国司はその地域の神社を全部回らなければならないところ、総社だけに参ればその代わりになったということです。我々もここにお参りして、隠岐の神々のみなさんにご挨拶しておきましょう。




<隠岐で拾ったお話>

 その5 隠岐独立! の歴史の一コマ

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