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隠岐に神社が多いのには理由があった

更新日:2019年12月14日

隠岐で拾ったお話 その1

隠岐の神社マップがすごい

 隠岐の4島には、今でも100社以上の神社がありますが、江戸時代には300社あったという記録があります。すべてに社殿があるわけでも、宮司さんが常駐しているわけでもありませんが、それぞれ地域の人たちがちゃんと信仰してお祀りしているそうです。

 その中で68の神社をイラストマップにまとめた『隠岐島前・島後 神社Map』が実によくできています。 ここからダウンロード

 地図だけでなく、「この神社に行ったら、これを見逃しちゃダメ」というポイントも、イラストと、少ない文字数でズバッと表現されています。

この島が特別な理由

 平安時代に編纂された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう/『延喜式』の巻9・10で全国の神社が記載されている)に、隠岐には16社が載っています。

 その中でも特に格式の高い名神(みょうじん)大社だけでも、由良比女神社、宇受加命神社、水若酢神社、伊勢命神社(ゆらひめ・うづかみこと・みずわかす・いせみこと)の4社。島根県内の名神大社は、隠岐以外には出雲大社(出雲市)と熊野大社(松江市)の2社だけです。

 なぜ隠岐にそれほど神社があるのでしょうか?

 その前に、どうして神社を置くのでしょう。私たちがなんとなく捉えている神社は、氏子の地域を守ってくれている存在です。しかし、古代人はもっと切実な思いで、神様にこの国土を守ってもらおうと神様を祀ったのではないでしょうか。それが隠岐だったのはなぜでしょう。

 それは、隠岐が大陸からの玄関口だったからです。

 朝鮮半島から船出すると、対馬海流の影響で最初に漂着するのは隠岐の確率が高くなります。古代から隠岐には、大陸からの文物が入ってきました。その一方、日本が攻撃された場合にも真っ先に攻められる可能性が高くなります。その上、都から見て隠岐のある戌亥(北西)は怨霊や魑魅魍魎がやってくるとされている方角。

 それで、この国を神様に守ってもらおうと、多くの神社を祀ったというわけです。

(左)中ノ島の宇受賀命(うづかみこと)神社は平安時代創建の名神大社 (中央)大山神社(島後)は樹齢400年の杉を祀っている。この幹にカズラを巻く神事「山祭り」が隔年で行われる (右)西ノ島の焼火(たくひ)山中腹にある焼火神社は、本殿が岩窟にめりこむようにして建てられた懸崖造り。北前船など船乗りの信仰を集めた


高貴の人が流された島

 隠岐には、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流されたことはよく知られています。小野妹子の子孫で漢詩や和歌など文学の素養にあふれた小野篁(たかむら)も、ここに流されています。

 このように高貴の人を島流しにするとなると、どこに流すかは大問題です。地位が高く慕っている人も多いので、命に関わるような危険や不自由のある島は選べません。もしも亡くなりでもすれば、当時は祟りがあると畏れられていました。かといって、すぐに脱走して都に戻ってしまったら、政情が混乱します。

 そこで選ばれたのが、隠岐です。

・本土から約50kmも離れているので、たやすく戻ることはできない。

・対馬暖流の影響で、冬も意外と過ごしやすい。

・大陸文化の玄関口だから文化度も高い。

・離島なのに湧き水があって稲作もできる。

 こういった好条件の上に、たくさんの神社に上皇や天皇の怨念を鎮めてもらえる。そのような理由で、隠岐には身分の高い人が流されてきたのです。

 このように、大陸から流れ着く人がいたり、高貴の人やそのお供で来る人がいたり、島でありながら歴史上たくさんの人が隠岐にやってきて、それに伴ってさまざまな情報や文化ももたらされた。それを排除するのではなく地域に取り込んできた経験は、隠岐の人のDNAに記録されているのではないでしょうか。

 その血がいま、多くの若者を迎え入れて新しいことを興したり、高校に国内から"留学生"が集まって人気校になったり、この時代に人口を増やしたり、という明るい流れを生み出しているのではないか、というのが私の仮説です。

(上段)後鳥羽上皇は承久の乱に敗れ、隠岐の中ノ島(現・海士町)に流された。左・中央は後鳥羽院の行在所。60歳で崩御するまでの20年を過ごした。右の隠岐神社は、上皇崩御700年と、翌年の皇紀2600年の祝賀を兼ねて昭和14年(1939)に創建された (下段)左・右は後醍醐天皇が配流された行在所跡とされる西ノ島の黒木御所(島後の国分寺とも言われている)。翌年には脱出するのだが、その詳細は 資料館の「碧風館」 で知ることができる。右の写真は、喧嘩して刺殺された流人・安兵衛の墓。隠岐では流人も埋葬を許された。小野篁が流されていた光山寺跡にある

神社と地球の歴史の関係

 現在は海沿いに道路ができていたりしてわかりづらいのですが、地図を見てみると、古い神社には海の近くの少し高くなった場所にあるものが多くあります。

 この後、(その5)隠岐騒動で登場する玉若酢命(たまわかすみこと)神社もその一例です。この神社をはじめ、隠岐では神社に古墳がよく見られます。神社自体は後に社殿を建てたりして祀ったのでしょうが、元々重要人物を埋葬するなどした神聖な場所だったことがわかります。そこは、かつては海のほとりでした。その後、海面が約10m低くなったことで、現在のような位置関係になりました。これも正に、地球の大きな変化が人の信仰・暮らしと関わっている接点。ジオパークのおもしろさですね。

 玉若酢命神社には、その他にも

「ただの砂利だと思ったら、なんと元は32億年前の砂や泥!」とか

「境内の八百杉は、推定樹齢約2000年! しかも直にそのパワーをもらえる」とか

ジオパークのネタがいくつも。

 実際に目にしたり触れたりしないと実感できないし、その場で説明してもらわないとピンとこないことも多いのですよねぇ。


島前の西郷湾の奥にある玉若酢命神社。以前はもっと湾が深く海になっていた。境内の奥に古墳群があることから、古代から神聖な場だったことが察せられる

<隠岐で拾ったお話>

 その2 隠岐に神社が多いのには理由があった

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